落柿舎碑めぐり
ホーム > 落柿舎碑めぐり
柿主や梢はちかきあらし山
 安永元年(1772)井上重厚(いのうえじゅうこう)が建立、洛中第一に古いとされる句碑である。重厚は、芭蕉の遺徳顕彰に生涯をささげた蝶夢(ちょうむ)の門人であり、荒廃していた落柿舎を再興した二世庵主。尚、芭蕉翁の墓がある大津の義仲寺・無名庵の庵主も兼ねた。
五月雨や色紙へぎたる壁の跡
 芭蕉が『嵯峨日記(さがにっき)』の最尾にしるした句。
『嵯峨日記』から、晩年の芭蕉が去来を深く信頼し、心より落柿舎に親しみくつろいでいる様子がうかがわれる。
凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり
 高浜虚子(たかはまきょし)の生前最後の自筆句碑であり、破調吟としてよく知られている。建碑は昭和三十四年。
加茂川のはやせの波のうちこえしことばのしらべ世にひびきけり
 明治三十五年、昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)が嵯峨天皇の皇女・有智子内親王(うちこないしんのう)を称えられた御歌。弘仁十四年春齋院(さいいん)の花宴の日、十七歳の内親王が即詠で見事な詩をつくられ、列座の文人みな驚き、天皇も賛嘆せられた。その名誉を歌われたのである。
十三畳半の落柿舎冬支度
 工藤芝蘭子(くどうしらんし)は落柿舎十一世庵主。永井瓢齋(ながいひょうさい)の志を継ぎ、堂島の相場師から一転、私財を投げ打って戦後の落柿舎再建に尽力。
春の雨天地ここに俳人塔
  俳人塔は昭和四十五年、落柿舎十一世庵主の工藤芝蘭子が過去・現在・未来をも含めた俳人供養の為に建立された。平澤興(ひらさわこう)は元京都大学総長。俳人塔竣工祭の折の作。
何もない庭の日ざしや冬来る
  昭和の文人・保田與重郎(やすだよじゅうろう)の句。落柿舎十三世庵主、『落柿舎のしるべ』を著す。
足あともはづかし庵のわかれ霜
  山鹿栢年(やまがはくねん)は八世庵主。近代における落柿舎復興の営みは明治の栢年より始まった。大正九年落柿舎退庵の折の作。
牡鹿なく小倉の山のすそ近みただ独りすむわが心かな
  落柿舎の裏手に西行(さいぎょう)井戸の趾あり。ここが西行庵の趾であったことを証す唯一のものである。
秋風にふきのこされて墓一つ
  去来墳道標(みちしるべ)の碑に刻まれている。
釋瓢齋供養塔
  落柿舎の昭和復興に功あった十世庵主の永井瓢齋供養塔。
去来先生墓
  落柿舎の裏、北へ百メートルの弘源寺墓地内にあり。遺髪を納めたという去来唯一の記念の墓である。四十センチほどの自然石に、ただ、「去来」とのみ刻まれている。
 尚、去来先生墓の近くには、四世庵主の吾同・八世の栢年・十一世の芝蘭子の墓がある。